ドイツ・ヴァイマル共和制下での2つの国民投票。そして、ヒトラーが仕掛けた5つの「国民投票」(その3)

*1月11日、このブログのページで「ヒトラーと国民投票」について簡潔に書いたところ、けっこうな反応がありました。それで、さらに詳しく紹介することにしました。6回にわたって連載します。なお、この連載は加筆して本年6月下旬に刷り上がる『国民投票の総て』の中に掲載されます。その本『国民投票の総て』を制作・普及するために、現在、クラウドファンディングによるみなさまの支援をお願いしています。応募締め切りは3月10日です。ぜひ御検討くださいクラウドファンディングのページ

ドイツ・ヴァイマル共和制下での2つの国民投票。
そして、ヒトラーが仕掛けた5つの「国民投票」(その3/全6回)

勢いづくヒトラーとナチ党
1932年の春に実施された大統領選挙にヒトラーは出馬。決選投票では、1939万票を得て当選したヒンデンブルクに次ぐ1341万票を得た。因みに共産党のテールマン党首の得票は370万だった。
この頃、ナチ党の党員は100万人に膨れ上がり、脅威を感じた政府は、大統領選の直後にナチの武装組織である親衛隊(SS)、突撃隊(SA)に対する「禁止令」を制定して組織の解体を図った。しかし、勢いを増すヒトラーは政府の首班フランツ・フォン・パーペンに取引を持ち掛け、政権に協力するからと「禁止令」を解除させた。するとすぐさま、ハンブルクのそばの港町アルトナで突撃隊(SA)と共産党の武装組織「赤色戦線」との激しい市街戦が勃発。17人の死者と多数の重傷者が出た(アルトナ血の日曜日事件)。こうした市街戦はベルリンなど他の街でも頻繁に起こり、共産主義者、民主主義者に対するナチの組織的暴力はエスカレートしていった。

ヒトラーは国会でも地方議会でも選挙という間接民主制に則る形でナチ党の勢力を合法的に拡大しつつ、その裏では暴力によって政敵を脅して黙らせる、謀殺するといった無法な活動を続けていた。当初、別のものだったこの表と裏の活動は、やがて表裏一体となり、ヒトラーは暴力行為を隠すのではなくこれを正当化し誇示するようになる。
初めはそうした体質に眉をひそめ批判していた人でさえ、次第に迫害を恐れてナチの蛮行を黙認するようになる。あるいは、ヒトラーに対してい抱いていた嫌悪感を好感に転じさせた人もいた。大統領選挙での1341万票の獲得はその証だ。
3カ月後の7月31日に行われた国会議員選挙で、ナチ党は1375万を超す票(得票率37.3%)を集め第一党に躍進。前回107だった獲得議席を230議席に倍増させた。ナチ党のヘルマン・ゲーリングが議長に選出された新国会は、召集されるやすぐにパーペン内閣不信任案を可決。パーペン首相が大統領令による国会解散権を行使したためドイツはまた選挙となった(11月6日実施)。

この選挙でナチ党は3カ月前の選挙に比べて200万票も減らしたものの第一党の座は守った。そのナチ党の議席数を利用して再び権力を自らの手中におさめようとしたパーペンは、ヒトラーに対して「君を首相にしよう、自分は副首相でいい」と共闘を求めた。ヒトラーなど容易に抑え込めると考えていたパーペン。彼は後に総統となる男の力を見くびっていた。
翌’33年1月30日、ヒトラーはついに「ドイツ国首相」の座をつかむ。彼はこの日を権力獲得の日とし「第三帝国」の始まりとした。同日、共産党は社民党や全独労組連盟に向けて、ヒトラー内閣打倒のために共同してゼネラルストライキを決行しようと申し入れたが、社民党は応じなかった。ちなみに、この時の国会での社共の議席は合わせて221でナチスの196を上回っていた。
首相就任のわずか2日後(2月1日)、ヒトラーはヒンデンブルク大統領を使って国会解散令を出させた。その狙いは、新たに選挙を実施して(3月5日)国会でのナチ党の議席を大幅に上積みすることにあったのだが、それを実現させるために投票までのひと月の間、ヒトラーは首相の権限を使ってのさまざまな合法的手段を駆使すると同時に親衛隊や突撃隊の暴力による強迫という違法な手段を躊躇うことなく行使した。
まずは「ドイツ国民保護のための大統領令」を発令。「保護」とは名ばかりで、反政府運動に対する取り締まりを強化し、新聞の発行量と報道の範囲は政府が決めると通達。発行停止もあり得るとした。その他デモや政治集会の禁止など、国民が政治的・市民的自由を行使するためのさまざまな権利をほぼすべて剥奪し、デモや集会参加者への警察官の武器使用も許可した。そして、ナチに対して最も厳しい批判をしていた共産党を合法政党であるにもかかわらず徹底的に弾圧した。

国会議事堂炎上で非常事態に突入
選挙投票日の1週間前にあたる2月27日の夜、国会議事堂が炎上するという衝撃的な事件が起きる。放火犯だとして即日逮捕されたのは24歳のオランダ人男性で共産主義者だと政府は発表したが、ナチ党のゲーリングらが仕組んだ事件だとする説も根強い(この件については、当時留学生としてベルリンに滞在していた四宮恭二氏の著作『国会炎上』に詳しい)。
いずれにせよ、ヒトラーはこの国会炎上事件を「国家転覆を狙った共産主義者の仕業だ」と決めつけて最大限利用する。事件の翌日には、手回しよく準備されていた「民族および国家保護のための大統領令」、「ドイツ民族に対する裏切りおよび反逆的陰謀を取り締まるための大統領令」など複数の成案を閣議決定。その日の夜にヒンデンブルクに要請して署名させ、即時発効した。そして、プロイセン州の補助警察という地位を与えられていた親衛隊と突撃隊が、堂々と共産党員やそのシンパを襲った。大臣の1人として全警察権力を握っていたゲーリングが、国会議員、地方議員を含む4千人以上の共産党員の逮捕を命じたのだ。
もし、日本の国会議員選挙の投票日直前に、「非常事態」だからと、共産党の候補者や支持者が政府の指示により数千人規模で拘束され、一方的に殴打されるなどということが起きたらどうだろう。あなたは「弾圧をやめろ!」と声をあげるだろうか。声をあげた者は捕まり収容所や牢獄送りとなる。あげなかった者は傍観するか政府を支持するか。当時のドイツ国民の多くが後者の道を選んだ。

そして、それは同時代の日本でも同じだった。1928年に日本共産党に対する大弾圧が行われ、治安維持法に「死刑」が追加された。政府や軍部は自分たちへの批判を許さない体制を着々と作りつつ中国への侵略を加速化。そして、1933年3月に日本は国際連盟を脱退した。そんな政府や軍部に対して黙することなく批判の声をあげた共産主義者や社会主義者は治安維持法によって投獄され、拷問といえる苛烈な取り調べを受けた。口を割らない、膝を屈しない者への容赦はなく、作家小林多喜二のように虐殺される者もいた。そんな体制下で日本国民が「反戦・平和」を叫ぶのはまさに命がけであり、多くの人は口を噤むしかなかった。
ヒトラーは、憲法に記されている国民の様々な権利を侵す数々の「大統領令」をヒンデンブルクに署名させ発令させたが、その合法性はヴァイマル憲法第48条(非常権限)の規定が根拠となっている。
この大統領令によって、言論・報道、集会・結社の自由、通信の秘密、私有財産の不可侵など、主権者である国民の基本的人権は合法的に剥奪され、令状によらない逮捕や拘禁が可能となった。世界史上、稀に見る民主的な内容を誇ったヴァイマル憲法は、選挙(間接民主制)を経て国会議員となり首相となった人物と、同じく選挙で大統領になった人物の民主的手続きを踏んだ合法的な行いによって形骸化。基本的人権の保障や言論・表現の自由といった憲法の民主的条項はその条文を残したまま否定され侵された。
このように共和政が瓦解する中、3月5日に国会議員選挙が行われた。総数647議席のうち、ナチ党は得票率44%で288(前回は196)もの議席を獲得。連立与党の国家人民党が得た52議席と合わせると340となり過半数を得る。左派の社民党は120議席、弾圧を受け逮捕者や死者が続出していた共産党も81議席をとった。ただし、その81人は誰一人として一度も国会に登院できなかった。ヒトラーが全議員の拘禁を命じたからだ。ヒトラーは国会の支配を目指したというより立法機関たる議会を葬ろうとしていたのだ。こうして、独裁体制の確立は最終段階に入った。

ヴァイマル憲法第48条(非常権限)
「……ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障
害が生じ、またはその虞があるときは、ライヒ大統領は、公共
の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることが、
必要な場合には、武装兵力を用いて介入することができる。
この目的のためにライヒ大統領は、一時的に第114条(人身の
自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電
信電話の秘密)、第118条(意見表明などの自由)、第123条
(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所
有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止
することができる。……」
(『ドイツ憲法集』高田敏、初宿正典編訳)

※次回は「全権委任法(授権法)の制定とヴァイマル共和政の死滅」から「国際連盟脱退の国民投票」まで。
*『国民投票の総て』を制作・普及するために、現在、クラウドファンディングによるみなさまの支援をお願いしています。応募締め切りは3月10日です。ぜひ御検討くださいクラウドファンディングのページ