ドイツ・ヴァイマル共和制下での2つの国民投票。そして、ヒトラーが仕掛けた5つの「国民投票」(その4)

全権委任法(授権法)の制定とヴァイマル共和政の死滅
司法、行政、立法の三権分立を原則とする近代的な民主国家においては、立法権は(行)政府にではなく国会にある。そして、その立法は憲法を侵すようなものであってはならない。ところが、ヒトラーはその常識を覆す法律を制定しようとしていた。政府の長である首相が国会審議や国会での議決・承認を経ず、すべての法律を思うがままに制定し、条約の締結あるいは破棄に関しても議会の批准を必要としないという統治。それは「全権委任法(正式名称は、民族およびドイツ国の困難を除去するための法律)」の制定によって可能となる。
結論を先に述べよう。国会を有名無実化してヒトラーを絶対権力者にする全権委任法は、国民投票によってではなく、暴力と脅迫とインチキによる形ばかりの国会採択によって成立した。
この法律は、本来、総議員(647人*)の3分の2(432人)以上の議員が出席し、その3分の2以上が賛成しなければ制定されない。もし社民党と共産党の議員が出席をボイコットするか出席して反対票を投じれば、否決の可能性が濃厚となる。だが、凶暴で狡猾なヒトラーやナチ党幹部にとって、この成立要件のハードルをクリアするのは容易なこと。彼らはこんな手を使った。
共産党議員全員(81人)と26人の社民党議員は当局に拘束されているか逃亡していたため元々出席不能だが、ヒトラーは、国会議長が認めない理由で欠席した議員は「出席扱い」にする旨、議院運営規則を変更。これで、その他の反ナチ系の議員がボイコットしたとしても前述の規則を適用すれば「出席」したことになる。あとはナチ党と国家人民党、中央党などでその3分の2以上の賛成票を確保できるというわけだ。
3月23日、焼失した国会議事堂に代わる会議場となったクロル・オペラハウスに現れた議員は538人。多くの突撃隊員がナチ党旗「ハーケン・クロイツ」が掲げられた議場わきの廊下に立って議員を威圧する中、全権委任法ほか3つの法案の「審議」が行われた。
*国会議長のゲーリングは共産党の81名を除いた566を議員総数として全権委任法を採決。これで2/3のハードルは378まで下がった。)
2カ月前、「ヒトラー打倒のためのゼネストの決行を」という共産党からの呼びかけに応じなかった社民党だが、出席した94人の議員は「我々の命と自由を奪おうとも名誉は奪えない…」と反対票を投じた。結局、全権委任法は[441 対 94]という大差で可決された(参議院は全会一致で可決)。この全権委任法の制定をもって、ドイツ議会とヴァイマル憲法は絶命。ビスマルク大統領という存在はあるものの、事実上ヒトラーの独裁体制が確立された。

ユダヤ人への迫害を公然化
全権委任法制定の5日後、ヒトラーらナチ党指導部は、「ユダヤ人へのボイコット」を宣言し、党の組織や党員に対して4月1日よりこれを電撃的かつ組織的に実施せよと命じた。その中身は、ユダヤ人から物を買うな、ユダヤ人が営む商店、会社を使うな、ユダヤ人の医師、弁護士*の世話になるなといったもので、公式のユダヤ人迫害措置はこれが初めてだ。しかしながら、多くの国民、とりわけ大都市の住民はこういったボイコット指示に反発し無視した。この頃はまだ人々にそんな良心と気概があった。だが、しばらくすると、「買うな」「使うな」は、突撃隊や親衛隊による閉鎖、襲撃、破壊といった暴力行為に転じた。同時に、迫害は立法措置を伴ったものとなり、ヒトラーは「職業官吏制の再建に関する法律」「弁護士登録に関する法」など数々の法律を制定して(4月7日)ユダヤ人をはじめ共産主義者、社会民主主義者の職を奪い、3千人以上の弁護士、5千人ほどのユダヤ人政府職員が失職した。違法ではなく合法的な措置によって、正当な利用なく彼らは職を奪われたのだ。
*1933年、ドイツの総人口に占めるユダヤ人の人口は1%未満だったが、護士の16%、医師の10%をユダヤ人が占めていた。)

やがてそうした差別・迫害は、ユダヤ人に限らず肉体や精神に障害をもつ人々にも向けられ、7月には「断種法」と呼ばれる「社会的不適正者子孫絶滅法」などの法律が制定され、非人道的な手術や隔離が強制的に行われた(施行は翌年1月14日。’34、’35年だけで13万4223件の手術が施された)。
ヒトラーを批判していた社民党だったが、そうした人権蹂躙の措置に対して声をあげ闘いを挑むのではなく、自党の活動禁止・非合法化を免れようと、各国の社会主義政党の連帯組織である「第2インターナショナル」を脱退した。だが6月22日に活動禁止となり、翌月、国会内の120の社民党議席は合法的に無効とされた。
このようにナチ以外の政党は非合法化されたり、自主解散したりナチに入ったりして、ついにナチ党がドイツでただ一つの合法政党となった。政党のみならず、自由と人権を守ろうとする組織や個人も弾圧や逃亡・亡命などでドイツ社会から急速に姿を消したが、反面、ヒトラーとナチ党に媚び阿(おもね)る者がすさまじい勢いで増殖した。この時までに150万に膨れ上がっていたナチ党への入党申し込みがさらに殺到したため党本部は受付を停止。入党希望の100万人以上が順番待ちとなった。

【ナチ党の党員数の推移】
1923年   55,287人   1935年  2,493,890人
1928年   96,918人   1937年  2,793,890人
1930年   129,563人     1938年  4,985,400人
1933年   849,000人   1939年  5,339,567人

国民投票法の改正
これまで何度も述べてきた通り、近代的な民主国家、立憲主義をとる国家において「法律の制定」は立法府(国会)の採択によってなされ、その法律は原則的に憲法を侵すものであってはならない。ところが、’33年2月4日にヒンデンブルクに署名させた「ドイツ国民保護のための大統領令」によって憲法で保障されているデモや集会を禁じ、国会炎上事件翌日に発令した「民族および国家のための大統領令」で、憲法に明記されている「人身の自由」、「住居の不可侵」、「信書の秘密」、「意見表明の自由」、「集会の自由」、「結社の自由」、「所有権」等々の基本権を停止した。
その上で謀略と暴力によって国会に全権委任法を制定させたヒトラー。これで、政府(事実上ヒトラー)が必要とする法律を議会の承認を得ずに次々と無制限に制定し発効できるようになった。*このようにしてヒトラーはヴァイマル憲法に記された民主的条項を合法的に侵す立法を重ねていったのだが、ヴァイマル共和政を破壊したい彼にとってそれは後ろめたい行いであるどころか誇るべきことであった。そうした一党独裁、人権蹂躙、ユダヤ人迫害の流れの中で、ヒトラーが触手を伸ばしたのが国民投票法だった。彼はこれをどんなふうに改正したのか、その狙いはどこにあったのか。具体的な検証を行う。
ヴァイマル憲法の国民投票に関わる規定については、3ページで簡潔に紹介しているが、その第73条、76条の規定に代わるものとして、ヒトラーは下記に示す「国民投票法」を制定した(1933年7月14日)。
*全権授与法の成立からナチ党政権の崩壊までの12年の間に国会で制定した法律はわずかに6つで、政府・ヒトラーが制定した法律は986に達した。)

§1[総則]
(1)政府は国民が政府の意図した措置に賛成するか反対するかについて、国民に問うことができる。
第1項による措置には、法律に関わる場合も含まれる。
§2[国民投票]
国民投票は有効投票の過半数で決する。
投票が憲法を変更する規定を含む法律に関わる場合も同様である。
§3[準用規定]
国民が措置に賛成したときは、1933年3月24日の「民族および国家の危機除去のための法律」(※全権委任法のこと)第3条は、これを準用する。
§4[規則制定権]
内務大臣は、本法を執行するために法規命令および一般的行政規則を発する権限を有する。
『ドイツ憲法集』高田敏、初宿正典編訳を基にして記載。

ヴァイマル憲法の国民投票に関する規定とこの国民投票法が決定的に異なる点は、主権者である国民からの発議・提案(イニシアチブ)に基づく国民投票を認めなくなったこと。ヒトラー独裁下の国民投票は、専ら「国民が政府の意図した措置に賛成するか反対するか」について答えるだけのものになった。実際、ヒトラーが仕掛けた5件の国民投票はいずれもそういうものだった。それは例えば、国民投票で原発稼働を認める法律が葬られたイタリア(2011年)やEU離脱を決めたイギリス(2016年)など、主権者による意思表示=投票結果が政策決定に反映される本来の国民投票とは大きく異なっている。
このあと、その1つ1つについて具体的に紹介し、それがいずれも国民投票擬(もど)き、国民投票の紛(まが)い物でしかなかったことを明らかにする。

次回は、「ヒトラーが仕掛けた「国民投票」➀」
国際連盟脱退に関する「国民投票」(1933年11月12日)