世界の国民投票 あんなこと こんなこと[その2]
ニュージーランド
アルコール政策に関する国民投票(1894年〜1987年)─大芝健太郎─
世界で初めて女性参政権が認められた背景には禁酒政策があった
ニュージーランドでは「徴兵制」、「選挙システム」、「体罰は犯罪とすべきか」、「新国旗の制定」など、2017年までに44回にわたり国民投票を実施している。その中には、政府が提案する憲法改正の国民投票もあれば、有権者の10%以上の請求署名による国民発議(イニシアチブ)の国民投票もある。中でも突出しているのが「アルコール政策」に関する国民投票で、1894年から1987年にかけてなんと30回も行われており、ニュージーランドで実施された国民投票の約2/3を占めている。何度も国民に問われた「アルコール政策」。それにはいったいどのような背景があったのだろうか。
禁酒運動の幕開け
ニュージーランドの禁酒運動は19世紀に欧米諸国からの入植者によってもたらされ、社会改善や道徳立て直し運動の一環として広まっていった。アルコールは貧困、病気、女性や子どもの放置、不道徳と無気力などの原因とされ、特に農業や漁業、工場での仕事を求めて渡り歩く人たちにおいて顕著な問題だった。
そんな中、教会を中心に禁酒を目指す団体が1820年代からニュージーランド西部、特にプロテスタントの州で組織され始めた。19世紀後半、教会では積極的に集会などを行い、支持者に「酒を飲まない」と誓約書にサインをさせた。禁酒は徐々に全国に広がり、多くの禁酒団体が設立され、酒は健全な社会の敵だとみなされるようになっていった。
運動の隆盛
1880年代に禁酒運動は大きく発展した。1886年に禁酒団体は国レベルの同盟を結成し、地域のネットワークを固め、禁酒のための教材を配布した。キリスト教禁酒女性同盟は1885年に設立された。特に女性は家や、家族を養うために、男性に依存するところが多かったため、酒を飲む男性によって一番悪い影響を受けていた。そして、この同盟はニュージーランドの女性選挙権獲得にも大きな影響を及ぼした。
自由党政府の苦渋の決断、国民投票
禁酒団体は、国民投票で法律を変更し禁酒できるよう働きかけた。禁酒を促す意見は政党の枠を超えて議論を呼び、特に与党である自由党の内部で意見が分かれ、政府にとってかなり厄介な問題になった。1893年首相のリチャード・セドンは「3年ごとの投票によって、各地域がアルコール免許の数を減らしたり、完全に禁酒できる」という新しいアルコール販売規制の法律を制定した。しかしこの禁酒には、過半数の投票率と有効投票総数の60%の賛成が必要と規定した。この高いハードルに禁酒支持者から不満があったが、同年ニュージーランドでは世界初の女性参政権が認められ、女性は禁酒を支持するだろうという追い風もあった。
熾烈を極めるキャンペーン
初めて行われた1894年の国民投票の投票率は低かったが、1986年から選挙の日に投票が行われることになると75%前後の高い投票率となった…。
日本の女性参政権は1945年からだが、ニュージーランドではすでにその半世紀ほど前の禁酒を求める国民投票から認められ始まっていた。
この後、第一次世界大戦、アメリカの全面禁酒、世界恐慌など揺れ動く情勢と1987年まで行われたニュージランドのアルコールをめぐる国民投票の関係については、『国民投票の総て』の中で詳細に紹介・解説します。ぜひ御購読ください。
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